原作 古賀 勝
編集 兼俊文明
発行 太宰府神牛塚管理事務局
ここは西海道の大宰府、村で飼われていた牛の一頭が道真公の目に留まり、大宰府政庁の南別舘で共に過ごすことになった。道真公は鞆「とも」と名付け可愛がった。楽しい時間も長く続かなかった。二年後の西暦903年2月25日、鞆の大きい鳴き声と同時に館の主が息を引き取った。菅原道真公59年の歳月だった。
その年、病に伏せる道真公は留守宅に残してきた妻の死を知り、もう都へは帰りたくないと従者に漏らした。
従者の名前は味酒安行(うまさかのやすゆき)といい道真公が信頼する人物だった。或る日、道真公は病床から窓の外を指し自分の亡骸はあの高い山のふもとに頭を都に向け葬ってほしいと遺言した。
葬送の朝が来た。道真公の亡骸は車力に乗せられ、鞆がそれを曳くことになった。小さな葬列は日が上る前のうす暗いうち味酒安行の先導で南館を出発した。行く先は遺言にあった高い山すなわち宝満山である。葬列は麓にある竈門神社を目指し進んでいった。その日の鞆はあまり元気がなく、曳く力も弱弱しく車力はゆっくり進み、馬場と呼ばれていた現在の参道の突き当りを左に折れ、しばらく北に進んだ竹藪のあたりで止まった。竈門神社まで頑張ってくれと安行は励ました。しかし、鞆は進もうとしなかった。思案に暮れる安行にお付きのものが囁いた。これも官公のご意志ではありますまいか、納得した味酒安行ら一行は近くに穴を掘り道真公の御遺体を埋葬した。その間の鞆といえば鳴く気力も失せたのか、荒い息を吐きながらうなだれているばかりだった。お別れの儀式を終えた一行は、からになった車力を引く鞆に寄り添いながら、南別舘への帰途に就いた。一行は約120m南に戻り、突き当りを右に折れ馬場、大町と呼ばれていた現在の参道を約380m西に直進すると再び突き当りを南に折れ、新町に入り約330m進むと、再び突き当りを右に折れ横町に入り約110m過ぎた先の突き当りを再び左に約150m進んだあたりを中町といい鞆最後の場所になった。
途中あまりの息の粗さに気づいた味酒安行は、中町あたりで水を飲ませようと川辺に連れていくが、水を飲むのも鞆は嫌がった。その後、緩やかな川の流れに頭から崩れ落ちてしまった。鞆もまた、道真公の後を追っての臨終だった。味酒安行は、近寄ってきた村人の協力を得て、河岸に穴を掘り鞆を埋葬した。
おわり
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